うつ病って実際どんな感じなのかという話

最近見かけるようになった近所のねこたん。しずかに近寄って距離50cmまで詰めたら気付かれてしまってびっくりして1m距離をとられる。でも逃げない。手をずっとなめててかゆそう。仲良くなりたい。

毎週名古屋に行くついでに、会社員時代の名古屋支店の同期と話してきたので、今日はおもむろに過去の話を。

うつの時にどんなこと考えてたのかと元上司のおはなし。ただの長ーい自分語り。でもちょっといい話。めんどい方はねこだけ眺めててくださいね。

精神病が認められてきて、うつ病の方が描かれた漫画ってたくさんあるので、今さら私が何か書く必要はないかなと思っていたけど、確かに実際になるまでは私もどう扱っていいのかわかんなかったなと思うので何の気なしに記しておきます。

私の病気の診断名は「適応障害」でした。3回なりました。新型うつと呼ばれていて、なんというか、「ただの甘え」に分類されやすい病です。

ネットで検索してもそんな内容ばかりが出てくるし、私自身も甘えなのかなあと、普通の人はこのくらいのこと、我慢して乗り越えてるのになんで自分はできないんだろうと思っていました。

1度目の適応障害のときは、いつものように会社に出社して、パソコンの前に座ったら、突然目の前のディスプレイが歪んで、「え?え?」と思っているうちに涙がボロボロこぼれてきて、それまで何の予兆もなく、わけがわからず、とりあえず早退しますと断って家に帰りました。

お家で泣きながらも、早く治さないとと思って検索して、どうやらうつ病っぽいとわかり、その日すぐにメンタルクリニックに行ったのを覚えてます。
まあでも、その精神科の先生が、当時の私よりもメンタルが不安定そうで、採血失敗して落ち込んでる先生をなぐさめたりしてました。その時まで自分がうつになるなんて思ってもみなかった。

お仕事は、営業の先輩がいち早く気付いて、総務に連絡してくださり、2〜3週間お休みをもらうことに。

当時の精神状況ってどんなかというと、日記に書き残していた一言は、
「真っ暗闇の中で、真っ黒の生地をこねて、オーブンに入れて焼いたら、真っ黒のパンが焼きあがったきもち」

過去に否定された言葉ばかりが思い浮かんで、泣いて泣いて泣き疲れては寝てまた泣いて、真っ暗闇の空間にずっといるような感じでした。

2度目の適応障害のときは、「身体が鉛のように感じられる」予兆が度々ありました。会社に欠勤の連絡を入れようにも、腕が持ち上がらなくて、わずか50cm先のケータイに手が届かない、起き上がれない。

そのときは原因がわかっていて、仕事の過度なプレッシャーに耐えられなくなったことが原因でした。

確かまだデザイナーとしては2年目で、私と、10歳上の営業さんと、1つ上のプランナーさんの3人チームで、生活雑貨の通販会社である大きなクライアントの商品企画会議に行ったり、チラシの仕事をしてました。

おそらく商品企画会議に行くなんてことは今までなかったことで誰にも経験がなく、ただ、私はなんというかズバッとモノを言ってしまうタイプなので重宝されていたのかなんなのか、「デザイナーの馬場さんから見てどう思われますか?」と聞かれれば、「私なら絶対買わないですねー」とか平気でのたまって周りがアワアワしてるのにも気付かない…という…笑。

よく今まで生きて来れたなあと思うのですが、なぜか先方の社長には可愛がられたりして、営業さんにもプランナーさんにも「もう馬場さん一人でいいよねこの会議」と言われてしまうくらい、自分の意見が全部通るような状況でした。

傍目からは恐らく、自信ありげに見えていたからか、何を制作するにもチームの2人とも私を頼りきるようになって、ただ、私自身はそれほど自信があったわけではなく、しょせん2年目のひよっこで経験値もそれほどなく、その責任感や重圧に耐えきれなくなり始めていました。

モデルさんを使っての撮影なんてしたこともなく、ラフ?タイムスケジュール?って感じで全部手探りで、頑張って作った百貨店向けにうつチラシのデザインも持っていく直前で社内の偉い人からやり直し命令が飛んできたり、なのにやったこともない自社のwebデザインは頼まれるわ、夜中3時までかかって作っては、朝イチで偉い人にプレゼンしてそのまま北陸出張行ったり。

今思えば、明らかにキャパオーバーなので、上手に断るなり、わからないことは素直に先輩や上司に聞けばよかったのに、全部「プロなんだからできて当たり前」と一人で抱え込んでしまっていたんだなあと思います。

確か、撮影写真がダメダメだったのがクレームで入ったのがきっかけで、二度目のうつ期に入りました。

朝は起きられるし、途中まで通勤できるのだけど、毎週行く商品企画会議の日に限ってどうしても出社できなくて、途中の公園で震えながら会社に電話をしてました。

行きたい気持ちはあるし、行けるとも思っている、今回こそは大丈夫、と頭ではわかっているけど、途中何度も自転車を止めてしまう。
その頃は、週4の頻度で片道2000円かけてタクシー通勤をしてました。それくらい、会社に向かうことが恐怖で。

でも、そんなぐっちゃぐちゃな精神状況だったにも関わらず、当時の上司が本当によくできた方でした。

欠勤の電話だって入れるのは怖い。でも、この上司はいつも大らかに「わかった。今日の仕事はこっちでやっとくから」と受け止めてくれました。

出社しても、全く頭が回らず考えがまとまらず、ものが作れない自分がこの場所にいていいのかわからなくて、席に座るのも怖いし、人と喋るなんてもってのほかで、同僚の顔を見ることもできず、薬を飲んだら眠気がすごくて2時間近く休憩室で寝てたり。

「自分の頭で考えてデザインを作れること」だけが、私の唯一の自信で、誇りで、アイデンティティーでした。その他に取り柄なんてないと本気で思っていた。
なので、「作れなくなった私はただの豚」という、紅の豚みたいなフレーズが頭をぐるぐる回っていて。

ある日、会社の席に座ることが本当に怖くてできなくなって、上司がタバコ休憩に行ったのを見かけてついて行き、はじめて大きなお願いをしました。

「オペレーターの課に異動したい」と。

私の会社は大きなデザイン会社だったので、チラシ課のデザイナーの仕事はコンセプトを決めてビジュアルの方向性を決めたり、ベースのデザインを作り込むだけで、あとは指示をするだけ。実際に手を動かすのは制作オペレーターさんにお任せするような仕組みでした。

言ってしまえば、オペレーターさんは指示された通りに作ることが仕事。頭が回らない私でも、手を動かすことだけならできるから、オペレーターの課に異動になれば、少しは役に立てるはず。そんな思いでした。

でも、この一言は、「頭で考えて作ること」が唯一のプライドだった私にとって、敗北を表す言葉でした。優劣をつけるわけじゃないけれど、0からものを生み出せるデザイナーであることが、当時の自分の唯一の自信だったから。

「デザイナーとして役に立てない」罪悪感と、「せめてオペレーターとして役に立ちたい」私の心からの叫び。

「オペレーターの課に異動したい」
この一言を聞いて、上司は3秒だけ黙って、こう答えました。

「あなたのような優秀なデザイナーを他の課にやるつもりはない。」

端的に、一言、ずばっと。
その時私が一番欲しかった言葉でした。こんなに愛のある言葉はないと思う。自信を極限までなくしていた自分にとって、本当にすがるような、ギリギリの淵から助けてもらったような言葉でした。

たぶんこの時、上司が守ってくれたこの一言がなければ、あんなになりたくて憧れていたデザイナーという職業をとっくに辞めていたと思います。

今はもう9年間勤めたその会社を辞めてしまったけれど、私が9年も働けたのはこの上司がいてくれたおかげだし、辞めた今でも月に一回、水道が止まってるんじゃないかと心配して飲みに誘ってもらっています。

私の人生は、ドン底の危機に陥るたびに、こんな風に助けてくれる人がいつもいて、その度に人の優しさに大きく守られて生きてきました。だから人が好きだし、弱っている人を見ると当時の自分を思い出して、気になってしまう。

誰にも相談せず一人で生きてきたように見えて、少しずつ誰かに寄っかかりながら、私も誰かの支えになりながら、今も、本当に少しずつ人との関わり方を学んでいるような気がします。

昔からマザーテレサ願望があるのだけど、全然到達できないなあ…といつも思います。でもそうありたいと思っていれば、いずれ近づいていくのではないかしら。今まで助けてくださったあたたかいみなさんのように、私もそういう人でありたいと思っています。いやあでも本当にまだまだだなあ………出家しないとかなあ…その上司はデザイナーなのだけど、デザイナーはあくまで副業で本業はお坊さん。徳が高い?

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